

飛鳥板葺宮での蘇我入鹿暗殺(乙支の変)に始まる大化の改新。
その際、孝徳天皇が遷都したのが難波宮(難波長柄豊崎宮)です。
難波の宮はそれ以来、8世紀末までの約180年間、首都としてまた副都として日本の古代史に大きな役割をはたしました。
前期難波宮は、すべての建物が掘立柱で、屋根に瓦を葺かない建物でした。
7世紀の中頃、飛鳥で蘇我氏が滅ぼされて後、遷都した「難波長柄豊崎宮」がこれにあたると考えられ、天武天皇朱鳥元年(688年)に火災で全焼するまで続いたと考えられています。
この宮殿は最初の本格的な中国風の都と考えられていれる大和の藤原宮に先行するもので、古代国家の成立期の貴重な遺構です。
後期難波宮跡は、奈良時代の神亀3年(726年)聖武天皇の時に造営された宮殿です。
大極殿や朝堂院の中心建物には礎石が用いられ、屋根には蓮華文・唐草文・重圏文軒瓦などの瓦が葺かれていました。
天平16年(744年)にはここ難波宮が首都と定められましたが、翌年再び平城宮へと移されました。
前後2時期の難波宮の遺跡のほか、それ以前の大規模な建物跡もほぼ全域で発見されています。
港をひかえた難波の地は、5世紀以降外交・文化・経済・政治の要衝として栄えていたことがしのばれます。
なお、近くの大阪歴史博物館には、発掘された難波宮の遺構が保存・公開されています。
写真は大阪歴史博物館展示の女官(帝のお世話をする係のひとり)大阪の朝 ホテル大阪ベイタワー9Fより
住吉大社
お祓いの神さま
住吉大神は禊祓 (みそぎはらい) で出現されたので、禊祓の神でもあり、住吉祭が「おはらい」と呼ばれるほど、神道でもっとも大事な祓いを司る神です。
航海安全の神さま
海上の無事を祈る海の神として、万葉集や住吉大社神代記に歌が残っています。
奈良時代、遣唐使の派遣の際には、必ず海上の無事を祈りました。
このような海上安全の守護としての信仰は広がり、海上輸送がさかんになった江戸時代には、運送船業の関係者により、約600基の石燈籠が奉納されています。
和歌の神さま
和歌の神さまとして、平安時代からは、歌道を志して参拝する人が数多くありました。
有名な和歌としては、「我見ても久しくなりぬ住吉の岸の姫松いく代へぬらむ」(古今和歌集)があります。この歌は、神楽の曲として、今日でも歌われています。
農耕の神さま
住吉大神が草を敷かずに苗代をつくる方法を教えたという伝説が残っています。
また、神功皇后が長門国(現在の山口県)から植女 (うえめ) を呼び、御田を作り五穀豊穣を祈られたといわれています。
源氏物語の舞台
社前は今は完全な市中だが、江戸時代までは境内馬場(現在の住吉公園)は海に面し、白砂青松の風光明媚の代表地とされ、その風景の絵模様は「住吉模様」と呼ばれた。
また紫式部『源氏物語』には明石の君に関連した重要な舞台として描かれている。
また『一寸法師』は子宝に恵まれなかった初老の夫婦が住吉大社に参り、子供を出産し、その子供が住吉津から細江川を下って大阪湾に出、淀川をのぼり、京都へ向う話である。
(大阪歴史博物館資料/住吉大社HP/フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋)2008.11.23