|
|
Allergie I Telome I Special I FAQ I HOME |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
![]() |
![]() |
|
大同3年(803)比叡山延暦寺に向かう途中の慈覚大師円仁が当地に立ち寄り、霊夢を得て自ら彫った不動明王像を安置したことを創始とする。 天台宗 泰叡山瀧泉寺と号し、山号は清和天皇(第56代)時代(858〜876)に下賜された勅額から「独鈷(どっこ)の瀧」に湧く泉水にちなむ。 江戸時代初期(1600年代)すでに市中の名所として人気高く、参詣に花見に、貴賎のへだたりなく大勢の人が訪れた。 当事の目黒不動尊の様子を伝える句が残っている。 花を見る人や不動のかなしばり 寛永年間(1624〜1644)徳川三代将軍家光は当寺を深く尊信し、堂塔や子院など合わせて53棟、江戸っ子たちが「目黒御殿」と呼んだほどの大伽藍を造営、また鷹狩りの際の休憩場所ともしたから、門前には名物目黒飴などさまざまな店がぎっしり並んで、文字通り市を成すほどであった。 江戸城の守護に当たる五色不動(北-玄武(黒)、東-青滝(青)、南-朱雀(赤)、西-白虎(白)、中央-江戸城(黄))の一つ、江戸三十三観音納めの札所、更に富くじ興行の許可も受けて、目黒不動尊は栄えに栄え、江戸随一の隆盛を誇ったと云う。 家光ゆかりの諸堂はことごとく戦火で焼失し、現在の建物は極一部を除いて戦後の建築である。 とはいえ境内は今も小山のように広く、豊かな森も当事とほとんど変わらない。 昔のままの鉤(かぎ)の手に続く長い参道、今は両側に魚屋、八百屋、茶鋪、花屋などが並ぶ賑やかな商店街を抜けて重層楼閣造りの華麗な山門をくぐると、大本堂に向かう石段の左に独鈷の滝がある。 堂宇建立の場所を決めようと慈覚大師が投げた独鈷の落ちた所に湧いたと云い、以来今日まで不動行者の浄魂の場(水垢離場)とされている。 独鈷の滝の左にある古い木造りのお堂は江戸中期建築の前不動堂。 その奥の勢至堂(せしどう)と合わせて、戦火を免れた貴重な遺構である。 境内右手には阿弥陀堂、地蔵堂、そして納めの三十三番札所観音堂。 正面石段を上がった先に朱塗り入母屋造り、昭和56年(1981)再建の大本堂が建つ。 大本堂真裏の露座の大日如来にもお詣りしたい。 青木昆陽(こんよう)明和6年(1769)10月12日72才で死去 江戸中期にさつま芋の普及に努めた甘藷先生青木昆陽の墓はこの寺の墓地にある。 墓碑には生前に自身が建て銘も自筆である。傍らに母と長女の墓もあり、大鳥神社あたりが昆陽の別邸だった。 (中野史友会資料より抜粋)2006.1.15
|