め組の喧嘩 芝大神宮(港区芝大門1-12-7)

文化2年(1805)1月16日、芝神明の境内で興行中の相撲と、町の鳶の若い者が大喧嘩をした。
それを素材にして創作されたのが竹柴其水(たけしば きすい)の「神明恵和合取組」(かみのめぐみわごうのとりくみ)という芝居で、通称は「め組の喧嘩」といわれている。
事実は芝居で見られるような一年を十日で暮すいい男と、意地を貫く男伊達(おとこだて)の争いという訳ではない。
若い者が血気にはやって大喧嘩をして処罰されただけの事である。と呆気(あっけ)ない結論になっている。
芝居は如何に面白く、楽しませてくれるものなのかが判る。
事実のことの起こりは、辰五郎(め組の頭の悴)と九竜山(水引力士)が神明の水茶屋の女を張り合っていたからである。
「藤岡屋日記の文化2年2月の条」に次ぎのように記載されている。
辰五郎は馴染みの茶見世女を水引(九竜山)に横取りされたと云うので、険悪な空気があった折から、たまたま相撲の七日目のこと、水引(九竜山)は同じ神明宮境内の芝居を覗きに行った。
それを見かけため組の鳶の者が喧嘩を吹っかけ、ありとあらゆる悪口雑言を浴びせかけたが、水引(九竜山)は面倒な事になってはいけないと思案し、相手にせず、芝居小屋の外に出た。
そこへ多勢の鳶の者たちが打って掛かったが、それでも水引(九竜山)は堪忍してそのまま引き上げた。
しかし、この話を聞いた兄弟子の四ツ車大八は承知しない。
このまま済ませて置くのは、角界一同の名折れ、親分(柏戸親方)までの恥辱ではないか。
貴様も命を捨てよ、俺も命を捨てるぞと云い捨てて飛び出し、鳶の者大勢を相手に敲(たた)き合いになった。
鳶連中は追い立てられて屋根の上にあがって、瓦を剥いでは投げ付ける。
四ツ車は大力に任せ梯子を振るって殴り落とす。
とうとう鳶の者はたまらず、火事でもないのに出半鐘(出動合図の半鐘)を打ったので、ますます騒動に輪を掛ける次第となった。
勧進元は月番寺社奉行へ駆け込み、鳶の者の狼藉を訴え出たので、寺社方の捕手が出向き、事が収まった。
「江戸の事件史」によるその事実とは辰五郎が同町の長次郎と、よそ町の富士松と三人で相撲小屋に無料入場をしようとしたら、断られた。
興行物は土地の鳶職に世話になるから、神明のめ組の者は無料でいいが、よそ町の富士松は駄目だと云う。
それを「いいじゃねえか」と辰五郎が無理に入ろうとしている所へ、九竜山が出て来て悪口を云って追い返した。
それじゃあ芝居でも見ようと神明境内でやっていた小屋掛け芝居に入った。
すると、辰五郎たちがいるとは知らないで、九竜山が芝居を見に来た。
芝居小屋でも九竜山が威張っていたから、辰五郎、長次郎、富士松の三人が九竜山の悪口を云った。
わざと聞こえるように云ったから九竜山が怒った。
この芝居小屋には辰五郎たちの他にも鳶の者が来ていた。
その男たちが手近にいたから、九竜山は辰五郎たちの代わりに、同じ組の若い者たちを殴り飛ばしたり、投げ飛ばしたりした。
この喧嘩は居合わせた相撲の年寄の揚羽が来て仲裁した。
ところが噂を聞いてめ組の若い者が芝居小屋にぞくぞく集まって来た。
九竜山の兄弟子の四ツ車大八が向こうがやる気なら、こっちもやろうと言い出した。
それで九竜山のいる柏戸部屋の力士が十人位で抜刀して鳶の者の集結している所へ押しかけた。
鳶のほうは屋根に上がって瓦を投げつけた。
鳶の長松という男が番屋の番人が止めるのも聞かずに火の見櫓へ駆け上がって、スリ半(バン)を打った。
スリ半とは半鐘をはげしく速く叩くことで近所の火事を知らせる合図である。
スリ半が聞こえると町内は大騒ぎになる。
「それ、早鐘だ、スリ半だ」と各町内が火事だと思って近隣の火消人足は火事の支度をして、芝神明の境内に駆けつけて来た。
それで、鳶の者と力士の大喧嘩となった。
相撲の親方柏戸と鳶の頭(かしら)がとめに入ったが治まらず、乱闘は四時間に及んだ。
そして南町奉行所から与力、同心その他が取りおさめに来て、三十数人が逮捕された。
富士松は重傷の結果死んだ。
力士の側には大名がついている。その上少人数だった。
め組の方は町火消だったし人数が多すぎた。
町奉行、寺社奉行、勘定奉行、立ち会いで処罰が決まった。
九竜山は喧嘩の張本人だから江戸払い。力士の方は他におとがめ無し。
め組の方は、半鐘を叩いた長松が牢で病死したし、富士松も死んでいる。
長次郎は辰五郎と共に江戸から追放される刑としては一番軽い中追放になった。
罪としては半鐘を私事で叩いたのが重罪なのだが、それをした長松が獄死したから辰五郎たちは軽い扱いですんだのである。
(中野史友会資料より抜粋)2005.11.27