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服部半蔵と岡崎信康 西念寺(新宿区若葉2-9)
服部半蔵 元亀3年(1572)12月、徳川家康は三方が原で武田信玄と交戦し敗れたが、 半蔵に助けられ浜松城に帰っている。(村の郷士 加太または鹿伏兎(カブト)氏も同行したと云われている) この時の功績によって、家康から槍一本を拝領し、伊賀者150人を預けられた。( 加太氏は江戸城指定の商人となり、屋号は伊勢屋) 以後、半蔵は伊賀者の総指揮者となり、家康の江戸城入城後、江戸城西門である四谷通りに面した門の近くに住み警備にあたった。 半蔵門の名前もこれに寄るものである。 半蔵は慶長元年(1596)11月14日、55才で清水谷で死去し、西念寺に葬られ墓も建てられた。 半蔵所持の槍は本堂に保存されている。 岡崎信康 徳川家康の長子。家康は織田信長と手を結ぶ為、信康に信長の娘 徳姫を迎え入れた。 しかし信康は信長の威を鼻にかける徳姫を好まなかった。徳姫も信康の態度に不満を持ち、信長に訴えた。 そこで信長は天正7年(1579)7月16日、家康に対して信康を殺せと要求してきた。 武田勝頼(甲斐国)を当面の適としている家康は、信長との間に亀裂が入る事をさける為に、この要求を拒否出来なかった。 家康はやむなく9月15日、遠州二俣城において、21才だった信康に切腹を命じたのである。 信康自刃の時、服部半蔵は介錯(かいしゃく)役だったが、信康の無念無惨な最後を見るにしのびず、刀を投げ棄てて泣いて卒倒したと云う。 遂に介錯は出来なかった。 半蔵が信康の遺髪を埋めて手厚く供養した、「岡崎信康供養碑」は西念寺にあります(信康の墓は岡崎市清竜寺にあります) 私は「服部半蔵と西念寺」より「服部半蔵と岡崎信康」の伝わっている状況と歴史的背景と苦悩に思いを寄せました。 ましてや「槍」には全く興味が湧きませんでした。 信康は21才、徳姫はそれより年下、現代の同年代とオーバラップさせて考えるとどこ迄現状を理解していたのだろうか。 (中野史友会資料より抜粋)2005.10.23 |