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泉岳寺
慶長17(1612)年徳川家光の禅宗の師門庵宗関(もんあんそうかん)の隠居所として開かれたのが始まりであり、溜池の上麻布霊南坂附近に建設された曹洞宗の禅寺である。 現在地に移ったのは寛永18(1641)年、浅野家の菩提寺、鉄砲洲にあった浅野家の裏門だったものを移築し、この門をくぐり浅野内匠頭長矩(冷光院)と夫人瑶泉院両人らの浅野家墓地に入る。 両人の墓の間に藩祖長重(台霊院)、三代長友(景永院)と長矩の弟大学長広(亮監院)の墓がある。 弟大学長広は討入りの9年後に幕府に召し出され、500石を与えられ、子孫は旗本として存続した。 別の玉垣内には大石内蔵助良雄、主税をはじめとする義士たちの墓が、討入り後身柄を預けられた屋敷(熊本細川家、松山久松松平家、山形水野家、長府毛利家)ごとに俗名や年令と「刃」の文字も刻まれている。 入口に一番近い「刃道喜剣信士」の墓は萱野(かやの)三平のものと云われるが、討入りに参加しておらず、この戒名から薩摩藩士村上喜剣が隠居中の大石内蔵助を罵ったのを恥じてその墓前で切腹したのを葬ったとも云う。 これは架空の話しとされている。 (中野史友会資料より抜粋)2004.10.24 |
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大石内蔵助良雄(よしたか)の像(泉岳寺に立っています)
赤穂浪士吉良上野介義央(よしなか)邸討入り;遺恨による大名の刃傷(にんじょう)事件は近世を通じて幾つかあった。 江戸城本丸の松之廊下で浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央に斬り付けただけでは、これ程の大事件とはならなかったに違いない。 復讐の原因は片手落ちの判決と、その執行にあった。 つまり田村屋敷での切腹断絶と云う処刑にあった。 大石内蔵助良雄(よしたか)は長矩の弟大学による跡目相続を嘆願している。 城中抜刃の咎めはともかくとしても、この願いが幕府に聞き届けられたら復讐も無かったと云えよう。 義央に何の譴責(けんせき)もなく、長矩だけの処罰に終わったところが発端になったと思う。 伊呂波歌(いろはうた)と赤穂浪士四十七士 カタカナで書くと47文字となり7字ずつ区画すると7区画で最後の区画は5字になる。 各区画の末字を並べて書くと「トカナクテシス」(咎なくて死す)になります。 赤穂浪士は予め討入りの人数を47人と決めていたのでしょうか。 偶然とは云え、我々の先人達は、よくぞ考えついたものです。
(中野史友会資料より抜粋)2004.10.24
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今回の高輪周辺は変化の坩堝でした。 江戸開城談判の跡(元三菱自動車本社、現第一田町ビル) 西郷隆盛・勝海舟会見;維新のクライマックスは何と言っても江戸総攻撃を控えた慶応4(1868)年3月13、14の両日、前将軍徳川慶喜の命運と江戸市民の安泰を賭けて勝海舟が西郷隆盛と会見した事にあります。 3月13日は高輪薩摩藩下屋敷(現ホテルパシフィック高輪)で、翌3月14日は三田の薩摩藩蔵屋敷の表側の抱屋敷(元三菱自動車本社)で談判を行い、慶喜助命・江戸開城の条件を西郷に納得させ、翌日に切迫していた江戸城攻撃中止を成功させた。 石碑の文字は西郷吉之助書…力強い書体です。 左下のレリーフは会見の様子が描かれ、右下の地図(絵図)からその時代は近く迄海岸線だった事が分ります。 (中野史友会資料より抜粋)2004.10.24 |